2006年07月15日

プロフェッショナルの自覚とか

ジダンとマテラッツィの口論問題は、ワールドカップ終了後もどんどんエスカレートしている。マテラッツィがジダンに向かって、お前の母は売春婦だ、お前の姉は売春婦だと言ったとか言わないとか。

先週半ばのとある平日、久々に近所の温泉に行った。仕事の疲れか全身だるくて精神的にもまいっていたが、やっぱり温泉につかると、心身ともに楽になる。風呂上がり、休憩室でポカリスエットステビアを飲みながら週刊誌を読んだ。

普段は雑誌なんて読まないし、買わない。買っても部屋においておく価値がないと思うから、すぐブックオフに売りに出す。そんな雑誌嫌いな僕でも、温泉に行くとなぜかゴシップ雑誌を読みたくなる。その日は週刊ポストを手に取った。雑誌置き場においてあったゴシップ誌がそれしかなかったからである。表紙の記事タイトルを読むと実に刺激的な記事も、記事そのものにあたると実につまらないことが多い。一番面白かったのは、負け組フーゾク嬢の座談会だった。

日本社会の階層化が進んだ現在、フーゾク嬢も、月数百万稼ぐ勝ち組と、OL並みにしか稼げない負け組に二極化しているのだと言う。要因として、きれいなコがどんどんフーゾク嬢になっており、競争が激しいこと、フーゾク自体の低価格化が進んだことなどがあげられていた。座談会のまとめとして、自身フーゾク嬢だった作家は、彼女たちにはプロ意識が見られないため負け組になっているのだろうと書いていた。月数百万稼ぐフーゾク嬢は、男の欲望をみたすプロとしての自覚、手腕があるのだと言う。自分のエゴに基づく欲望と仕事の愚痴ばかり言う彼女たちには、プロ意識がかけていると言う。

プロ意識について深く考えさせられた。自分は何らかのプロとして生きていないのではないかと思った。時々プロとして振る舞っていても、プロとして振る舞っていない時間の方が多いのではないかと思った。

雑誌を読んでいる間、休憩室にあるプラズマワイドテレビでは、NHKの歴史番組が流れていた。月経や妊娠の秘密について研究した偉人の特集番組だった。売春婦を取り上げた記事を読んでいた僕の目の前では、パジャマ姿の4歳くらいの子供が、どぎついグラビアの青年マンガ誌を持って遊んでいた。

ジダンの母親は、にくいマテラッツィのキンタマを料理してやると発言したらしい。
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2006年07月09日

大衆芸能を目指すこと

昨日仕事から帰ってきて、テレビをつけたら、NHK教育に爆笑問題が出ていた。爆笑問題と東大新入生の、教養についての対談。爆笑問題太田の発言によって、僕の今後の人生の指針が固まったように思う。太田さんは、表現者が、鑑賞者に目がないと批判するのはいけないと言う。表現者は、自分の表現が稚拙なこと、鑑賞者に表現が届かないことを反省すべきだと言う。相手に批判の矛先を向けるのでなく、自分の力の足りなさを痛感すること。

太田さんは、自分自身は一番多くの人が見ているところで勝負したいと言っていた。太田さんは、日本の学問にはわかりやすさが足りないと言っていた。

小泉総理のテレビ上での振る舞い方は、きわめてわかりやすいものだ。わかりやすさを求めすぎることによって、衆愚政治に陥ることもあるだろう。学問や文学にわかりやすさは必要ない、高度に専門的にことをすすめるべきだと、僕はぼんやりと考えていたが、同時に、より多くの人に言葉を届ける必要性も感じていた。わかりやすくすることは罪なのかどうか、それはわからない。しかし、自分の表現を愛するばかりに、読者を批判することは、やはり間違っていると思えた。

一番多くの人が見てくれている場所で勝負すること。僕はそれを避けていた。村上春樹は、一番大勢が見ているところで勝負していると思う。大衆芸能の場所でも、やろうと思えば、インチキではないことが達成できるし、意味深いことを伝えることができる。

僕は道を変えることにする。本当に狂騒が激しい場所に、自分の表現を届けてみたい。しごくまっとうな文章を書くこと。わかりやすさを求めるのでなく、読者批判をやめるようつとめること。どんな人にも届く言葉を意識して書き連ねること。新しい歩み。
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2006年07月07日

連鎖

力がなくなってくる日には何もしない方がいい。
何も考えず、何も行為せず、何も話さず、ひたすら隠れて生きること。

何のために、誰のために、何をどうして書いているのか。

誰もわからないが、わからなくてもいい。

今こうして苦しんでいることも運命。

今こうして心が幸せに向かうのも運命。

誰もが凍りついていて誰も笑わない。誰かが足をのばしている。指先に水を浸して微笑んでいる。
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2006年07月03日

大人が実は子どもだった

連載小説『エレクトリック・マルテの手記』第10回

何について書くのか。何故書くのか。誰に書くのか。一番親しい人のために。自分より等しいか、優れている人のために。よき読者を得て、よき読者の糧となるために。

大人と呼ばれる人たちの多くが、実はとても幼い心を持っていることに気づいた。みなわがままを言う。みな人を傷つける。みな嫉妬深く、独占欲が強く、ちょっとしたことでいらつき、人の心を踏みにじる。こういう私もまた子どもだった。

どんなことが起きてもいらつかない冷静さを保つこと。完全に自己を制御する強い心を持つこと。自制心を養うことが必要だ。世界は実にせわしない。私は一人生きていくために、自制心を養う。欲望と快楽のためにあつかましく生きるのでなく、世界に調和をもたらすために安らかな心で生きていく。

誰も私を惑わすことはできない。私が勝手に惑わされてきただけだった。私は愛憎に悩まされず生きていく。キリストは愛を説くが、ブッダは愛を執着として否定する。ブッダは冷徹な人なのか。そうではなく、彼は慈悲の人である。慈しみの心を持って生きること。欲望ではなく慈しみ。モナリザのようにゆったりした微笑みを口に保つこと。舌で人を傷つけないこと。友人の人生を大切に慈しむこと。自分自身をも慈しむこと。

大人たちは愛されることを求めている。私は愛さず、慈しむ。
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食費の節約ということについて

連載小説『エレクトリック・マルテの手記』第9回

食費の節約ということについて

今日、ブログのタイトルを経済活動・企業活動批判草稿から、小説の総題である『エレクトリック・マルテの手記』に変えた。内容にとって題名などどうでもよいのだが、より内容にふさわしい標題となるよう、より興味関心の近い人に読んでもらえるよう意図した。中田の引退表明もブログで綴られる時代だ。中田がブログに書いた文章が、後日ニュース番組にインタビュー代わりに朗読される時代だ。どれだけ強くたくましい足跡をインターネットに残せるのか、厳しい散策の時代がやってきた。

私はいつも無駄遣いをして生きている。いつも収入が足りないと思っていたが、ただ単に食費を使いすぎていたのだ。外食のしすぎだった。どんな金持ちでもここまで浪費しないだろうというほど、外食しまくっていた。食事に楽しみ、快楽を求めずに、ただ栄養を求めること。真実の仕事の合間に、しょうがなく、仕事を続けたいがために、食事をとること。そうした、食に伴う快楽から離れた姿勢が、お金に惑わされない人生を生み出すのだろう。収入を増やすことよりも、仕事の結果に執着するよりも、仕事そのものに大きな喜びを感じ取れるようになること。より多くの時間を仕事に捧げること。ただひたすら書き続けることだ。ブッダが諸国を放浪して真理を説いてまわったように、私は毎日ひたすら真実を、よく、美しく書くことだ。
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2006年07月02日

仏典に即して思うこと

連作小説「エレクトリック・マルテの手記」(8)

仏典に即して思うこと

仏典、スッタニパータ(註:岩波文庫『ブッダのことば』中村元訳)にあたった。

「もしも汝が、賢明で、協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、彼とともに歩め。
 しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならば、あたかも王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
 われらは実に朋友を得る幸を讃称える。自分よりも勝れ或いは等しい朋友には親しく近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。」(pp17-18)

私は犀の角のように独り歩んでいなかった。自分より優れている人、賢明で行儀正しい人に近づく努力もしていなかった。私はむしろ、下に見ることができる人に近づき、享楽を楽しんでいたように思える。書く仕事についても同じだ。私は読者諸氏を見下していた。私は自分より等しいか、自分より優れている人たちに向けて、言葉を紡いでいくべきなのだろう。喜びと慰めのために言葉を紡いでいるかぎり、それは仕事と呼べる代物ではない。よき友を求めること。よき友と得るために書いていくこと。読者とは良き友の萌芽である。私は読書を通して、歴史上に存在してきた優れた人々の思想に触れてきた。私は作家たちを友としてきた。しかしブッダは、そのような優れた友の存在も必要ないという。

「相争う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧を生じた。もはや他のものに指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。」(p19)

私は友との交流を欲している限り、迷っているのだ。

「ひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。」(p21)

利害関係なく、むさぼりの心なく、人と交わることは実に難しい。何の利害関係もなく、ただその人がいることがかぎりなく嬉しいと感じられる交流をはかること。人との交流をはかることを望んでいる限り、ブッダが達した悟りの境地にいたっていないのだろうか。交流をのぞむのでなく、慈しみを与えることを望むこと。これをブッダは望んでいる。自分の喜びのためでなく、友の喜びのために生きること。友の喜びが友の快楽となるのでなく、友の智慧の成長こそ友の喜びとなることを望んで、友に関わっていくこと。


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2006年06月27日

試験官、審判

連載小説「エレクトリック・マルテの手記」(7)

試験官、審判

今日は休日だった。言葉の道を歩んでいる僕にとってみれば、休日も何もなく、毎日毎日書き続けることのみが仕事であり生きることなのだが、さすがに金銭を得るための労働をしなくてもよいと、心に安らぎが生まれ、書くことに心を集めることができる。

今まで、週に一度の休日には、TOEICの勉強時間を取っていたため、休日でも心が安らぐことがなかった。慣れない英語の勉強にあたっていると、生活のための仕事をしている時よりも、心が緊張した。しかし、試験も終わり、今、僕は休日を休日として完全に享受できる。別に勉強することがそんなに大きな苦しみだったわけではないのだが、模擬試験をやらなくてもいいという解放感が、僕の心を大きく休ませてくれる。試験勉強をしなくていいから、書くこと、書物を読むことに集中できる。

僕は書くこと、書き物を読むことが好きなのに、何故か書く仕事に就いていない。生活のために就いている仕事は、書くこととは全く無関係なものである。もちろん、出版という仕事が、書く仕事と全く異なったものなのは確かなことである。出版業は、所詮出版業であり、書く仕事ではないのだ。ライターと一般的に呼びなわされている仕事もまた、それはライターにすぎず、書く仕事ではないのだ。

書く仕事は、一般的な社会活動から大きく隔てられたものだ。それは誰にも知られず、世界の夜のうちになされる仕事であり、一部の目を持っている人たちが、かろうじて触れることのできる秘められた仕事である。僕はその世界に足をおろそうと努力している。今まで、書くことで、人気を得ようとか、エゴの満足を満たそうとか、いろいろ極悪なことを考えていたが、こうした思いを全て捨てることによって、僕は書く仕事にひっそりと関わることができるのだろう。

昼の仕事が休みだからこそ、ぐっと大量に書くわけではなかった。書く量は、いつもの労働している日と同じだった。僕は休みの日、もっと集中して、朝からただひたすら書くことに没頭する必要があるだろう。というか、昼間働いている日も、もっともっと、書くこと、すでに他の人によって書かれた作品を読むことが必要だろう。僕は自分に課した仕事を放棄して、生活のために働いているが、本当は、心をもっと書くことに向ける必要がある。何を書くのかとか、どんなテーマで書くのかとか、そういうことは関係ない。ただ黙って書き続けることが必要なのだ。かといって量をこなせばいいというわけでもなく、一言一言にこめられた人生の質が重要なのだ。

僕はだらだらとした、闇雲な生活を続けているが、本当は毎日毎日試験に課けられているのだ。本当はいつも試験官に、審判に見つめられているのだ。審判は何も判決を下しはしないが、僕が隠し事から離れるたび、落胆しているのだ。僕が小さな楽しみのために、書くことから離れるたび、彼らは大きく落胆している。僕はもっと心を集める必要がある。

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2006年06月25日

(6)一部上場企業に勤める友人についての覚え書き

連載小説「エレクトリック・マルテの手記」

(6)

一部上場企業に勤める友人についての覚え書き

彼は毎朝8時半には会社に出勤する。通勤に一時間以上かかるため、起床は毎日7時前である。8時半に仕事を始めるからといって、早く終わるというわけでもなく、仕事はいつも終電ぎりぎり、夜の11時すぎまで続く。終電を逃した場合は、新宿からバスで家まで帰る。この長時間労働が毎時間続く。これが一部上場企業ならどこにでもある、当たり前の労働形態である。

もちろん中小企業でも人件費削減だ、利益産出だと長時間労働を当たり前にしているが、一部上場企業の場合は、その拘束がゆるくなるわけではなく、さらに厳しく、かつ合理的なものになるのだろう。企業で正社員として働き、安定した収入を確保したい場合、人は連日連夜続く長時間労働に耐えることができるのかと問われる。

収入がよく、安定した生活の裏にある、月曜から金曜まで続く長時間労働。これが嫌なら最近流行の下流に甘んじろと言うかのように。

人は真剣に働くなら、労働が神聖なものだと理解できるなら、長時間働くことを厭わない。はたして、企業経済活動の場において、人生の時間の大半をかけてまで働く意義を見出せるのか、企業での仕事に自分の人生の重点をおくことができるなかと問われれば、私は人生の価値を企業での仕事に見出せないと答える。私の居場所は、企業活動にない。

もちろん人それぞれだ。企業活動以外に人生の価値と居場所を見出す人もたくさんいるだろう。企業の経済活動が世界の全てではない。私が自分の居場所を見出したのは、今私が立っているこの場所、書くスペースだ。ここ、この場所に私は自分の人生を毎日打ちつけている。後から振り返ってながめれば、支離滅裂な記述がたくさんある。人に気に入られたい、より多くの人に見てもらいたいというあさはかなエゴが、私の足取りをごちゃごちゃにしている。ただひたすらまっすぐに自分の仕事の道を歩むこと。この仕事の道は収入を保証しないが、毎日の長時間労働を私に要求してる。詩人にとっては、考え、生き、感じること全てが仕事であり、至高の対象である。人生の全てが仕事にかけられている。この仕事は通常考えられている労働とは全く別物だ。この仕事は、私の個人的な人生に関する限り、何物も保証しない。そのかわりこの仕事は、私に絶対的な自己犠牲の精神を要求する。人生の全てをこの仕事のために投げ出すこと。私の人生における経験をこの仕事に完全に投入すること。私にとって、毎日あなたたちにむけて書き続けることが最上の喜びである。ただこのことだけが私の人生であり、労働だ。
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TOEICを受験して「エレクトリック・マルテの手記(5)」

連載小説『エレクトリック・マルテの手記』
第5話 TOEICを受験して

今日TOIECを受験した。『マルテの手記』188ページでリルケは、受験勉強にうちこむ医学生を批判している。正確に言うと、リルケは受験勉強にうちこむ医学生を批判してはいない。彼の生き方と、詩人である自分の生き方は決定的に異なるものだと記述しているだけだ。或る意味リルケの価値観を共有している僕も、大学に入学して以降は、受験とか資格とかいったもの全てに吐き気を覚えていた。賞を狙ったり、資格を得ようとする行い全てがばかばかしく思えた。そんな僕が、久かたぶりに受けたテストがTOEICである。

何故試験嫌いの僕がTOEICを受験したのか。きっかけはネット上の広告だった。その広告は資格勉強そのものを奨励するものではなかった。それは「個人の粉飾決算のすすめ」という、当時話題になっていた粉飾決算という言葉を使って、読者の注意をひく自己啓発記事だった。記者は、どれだけよく自分を魅せるかが収入アップの鍵であり、資格をとることもまた個人業績の粉飾決算に役立つと挑発的に書いていた。その記事の最後に資格試験支援サイトへのリンクが張られていた。実に巧妙な広告だった。資格取得と生真面目に言われたら、僕は以前と同じように興味を持たなかったろうが、このように扇動的にすすめられた結果、僕はまるで興味を持っていなかったが、そのくせ取れたらいいなと憧れ続けていた資格に目を向けたのだった。

いつもこうなのだ、本当なら自分が望む、世界が望む人生の実現に向けて、真っすぐに自分の生活を整えていくべきなのに、僕は広告や世人の言葉に流されて、ふらふらと必要ないことに手を出してしまう。

最初は中小企業診断士の資格を取ろうかと思った。しかし、診断士の資格を取るのに1年近い勉強が必要とわかり、とりあえず手軽に挑戦できるし、つぶしがきく、TOEICに手を伸ばすことにした。いざTOEICの勉強をはじめてみたら、楽しかった。今まで資格の勉強をしてこなかったこと、ばかにして手を出していなかったことが、実にもったいないことだと思われた。TOEICの資格を持っていなければ、僕の英語の実力がどれくらいなのか客観的にはわからない。一度TOEICの試験結果を得れば、僕の英語力がどれくらいか、よきにしろあしきにしろ、或る程度客観的な証明がなされる。資格はばかにして持っていないよりも、持っていた方がいいと思えてきた。

しかし、やはり勉強していると果たして僕が望んでいることはビジネスに役立つ英語力を磨くことなのかと反問してしまう。僕に必要なことはただひたすら真摯に書くことではなかったか。なぜ人生に必要ない英語の実力養成に励んでいるのかと悩んでしまう。それでも、英語の素養があれば、今後の人生におおいに役立つことは確かだ。英語の詩や小説が読めるし、日本語を使えない人々との交流の可能性も生まれる。しかし、それと、TOEICで高得点を取るために模擬試験を繰り返すのは、なんだか違う気がする。それでも、模擬試験を続けていると、今までは聴き取れなかった英語のスピーチも簡単に耳に入るようになったし、英語の長文も臆することなく読めるようになった。結局TOEICの受験勉強をしたことは、僕の人生の糧となったのだろうか。

日曜日、受験会場の明治大学のキャンパスに向かった。受験生は男女ともみな真面目そうで、やぼったい格好をしており、渋谷や新宿を歩く若者たちとは著しく対照をなす人たちだった。もちろんそのやぼったい人たちの中に、僕も含まれている。久々の試験は、大学受験を思い起こさせた。試験終了後、人で溢れかえった電車に乗った時も、大学受験終了後、受験生で溢れた電車の様子を思い出した。

試験から解放された僕は、続いてファイナンシャルプランナーの資格をとろうかと考えている。これまた、書くという本来の仕事とは全く関係ないものだ。しかし僕は、書く仕事を自分の喜びのために使いたくはない。書く仕事はきわめて自己犠牲的な行為であり、金銭的栄光や名声を意図してなされるものではないからだ。書くことは、僕個人のためになされるのでなく、七世代後の子どもたちのためになされる大きな仕事だ。一切のエゴから離れて、高度な倫理精神を持って、奉仕として、書く仕事はある。書く仕事に欲望を混入させないために、僕はTOEICやファイナンシャルプランナーの資格を求めているとも考えられる。しかし、資格を求める僕と、書く僕は、全く正反対の存在だ。僕は人生を一つの大きな目的に向けて統一させる必要があるように感じている。僕の人生はインターネットのようにばらばらで骨折している。朝から晩まで一つの目的に向けて、書くというただ一つの与えられた仕事に向けて、集中できる環境が欲しい。

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2006年06月21日

何故書くのか生きているのか生かされているのか

自分にとって本当に大切なことは何か。自分は何をするために生まれてきたのか。自分とは、自らを分け与えられた存在だ。私は何故、自らを分け与えられたのか。君と話すためだ。君と心から分かり合うためだ。君と深い心の交流をするためだ。それが肉体の交流を伴う場合もある。けれど、私たちはよくお互いを理解しあうためにこの世界に自らの持ち分を分け与えられてきた。私たちが使わされた理由は、お互いを理解しあうことだ。それはどんなビジネスや名誉や欲得にも勝って、きわめて明瞭に必要とされる行為だ。お互いをよく理解しあうことは人生の養分となる。

私は君に向かって語りかける。何よりも大切なことに向かって自分の人生を一歩踏み出すことを私は切に願っている。君の人生の助けになればいいと思っているが、誰も君を助けることなどできないこともまたわかっている。それでも深く知りたいと思う。知ろうとしてもたどりつけないものだ。たどりつけないなら、待つばかりだ。

時間の経過は何故あるのか、待つためだ。私はいつまでも待っている。何を。時が満ちるのを。

深い交わりを目的として、私は温和な文章を書き連ねる。新しいことを書き足すのが目的ではない。君の人生の芯が整うのを助けるために、私はこうして毎日書いている。毎日毎日整えている。いつも整理している。現実を。事象を。
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3 雑誌を読んで

風邪を治療するため、近所の温泉に浸かった。この前、春風邪をひいた時も、体調をよくしようと何度も温泉に通ったが、まるで効果がなかった。風邪薬を飲んだ途端、体が大きく和らいだ。温泉は、薬ほどには風邪の治療に役立たないかもしれないが、それでも体は温泉を求めてしまう。

風呂上がり、休憩所で何冊かの雑誌をめくった。普段雑誌など購読しない分、時々温泉で読みたくなってしまう。雑誌を読んでいる限り、何も考えずにすむからだ。

週刊誌に、サッカー選手の女性関係に関する記事が載っていた。スポーツ選手、とりわけサッカー選手は女性にもてる。サッカー選手は、二十代で人生の頂点を迎える故に、結婚も速い。モデルや売れないタレントとサッカー選手は結婚する。結婚すると、栄養バランスを考えた妻の料理が選手生活を支えたと書かれる。外で活躍するスポーツ選手を助ける、妻の手料理。これはきわめて古風な価値観の宣伝だ。男らしいスポーツ選手を助ける料理上手の妻。大学時代、フェミニズムをかじった私は、こんな記事にいちいち反感をおぼえてしまう。

こんなちょっとしたことで怒る私は、スポーツ選手に比べたら、遥かに栄養不足だ。栄養不足な故に、風邪をひくし、風邪がなかなか治らない。スーパーの総菜、コンビニの弁当、外食中心で、いくら野菜ジュースを時折飲んでいても、体は栄養不足だろう。それでも、スポーツ選手を支える料理上手な妻の存在は、単なる嫉妬をこえて許せない。最近活躍著しい女性スポーツ選手の場合はどうなるのだろうか。

私は運動が苦手だ。パソコンに向かって字をうちこんでいる方が好きだし、本を読むことが何より好きだ。私の友は偉大なる先人の作家たちだった。私は時代から離れて、どんどん過去に遡っていた。私は生きているのに死んでいる。同時にみな、生きているのに死んでいる。

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2006年06月20日

2 本当の仕事

昼休み、時間があまったので、コンビニエンスストアに立ち寄った。たまたま手にとった雑誌に「報酬が得られなくても今の仕事を続けていますか」と書いてあった。私は生活のために昼間仕事をしている。昼の仕事は、報酬を得ることだけが目的であり、もし賃金を得られなければ、とてもでないが続けられない仕事である。

一方私は昼の仕事が終わった後、自分と世界に寄り添う、自分が本当に望む真実ともいうべき仕事を続けている。この仕事からはまるで報酬が得られない。「報酬が得られなくても今の仕事を続けていますか、それほど今の仕事が好きですか」と問われる以前に、そもそも真実の仕事からは一切金銭が発生していない。欲する仕事をして、報酬が得られないことなど当たり前のことなのだ。本物の仕事をして、報酬を得ようとすること自体が間違っているのだと思った。

嘘いつわりなく生きること。すると当然、仕事を通して賃金を得ることができなくなる。あるがままを全て書き記すこと。一切の虚飾を排して、隠れない出来事そのものに目を向けること。詩人の仕事は、金を生み出さない。金を拝む詩人など偽物の詩人だ。私はそこを勘違いしていた。詩作することで普通に働くよりも楽に金を得ようと考えていた。そもそも詩を書くことで、お金を得ることなど不可能なのだ。というよりか、詩を書く仕事と、賃金労働とは、全く触れ得ない、別の世界に存在している出来事なのだ。



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(1)時代の風邪

風邪をひいた。頭が重く、足も背中も肩も痛い。全身の神経が病んでいる。本を読む気もしない。通勤電車では、いつも本を読んでいるのだが、ページを開いて字を目で追うだけで、頭が疲れてきてしまう。本を読むのをやめにして、ipodで聖書の朗読を聞くことにした。朗読を聞くだけならいくら体が疲れていても、耐えることができる。本を読むということは、目を使う仕事だ。耳を使って目を休めている限り、僕の脳神経は疲れを感じない。朗読の場面を頭の中に思い浮かべている場合、僕は目を使っているのかもしれない。本の文字を目で追うのに比べたら、頭の映像を見る仕事は、電車の外の景色を眺めるのと同じくらい楽で、風邪をひいていても十分こなせる仕事である。

もちろん僕の仕事は本を読み、聖書の朗読を聞くことだけではない。僕は昼間生活のために働いている。賃金を得るために働いている限り、僕はどんなに風邪で苦しくても、パソコン画面を見つめながら仕事をこなすことができる。しかし、お金と生活のためでなく、真性なる自己の実現のために、世界に寄り添うための仕事となると、風邪をひいている僕は、目を酷使して働くことができなくなってしまう。賃金労働においては、体の疲労、ストレスは無視される。僕は感じているはずの疲れを無視して、闇雲に仕事を続ける。故に僕の症状はますます悪化する。対して、真実の仕事、天職を行なっている時の僕は、ちょっとでも疲れがあれば、本を読むことさえできない。家に帰れば、パソコンに向かって文章を打つ真実の仕事をこなすこともできず、僕はすぐベッドに横になってしまう。体の疲れを無視して生活のために昼間仕事をした結果、僕の体は悲鳴をあげている。革靴に押しこめられたつま先から、ずっとパソコンを見つめていた視神経まで、全身が悲鳴をあげている。

疲れがある限り、僕は夜、家で真正の仕事ができない。風邪をひいてしまえば、電車の中で本を読むことさえできなくなってしまう。目を使わずに、耳で世界を聞けというのだろうか。書物ではなく、生の世界を見つめろというのだろうか。外の世界ではなく、自分の内面を、脳の中に浮かぶ映像を見つめろというのだろうか。しかし、昼間の仕事で疲れきり、かつ風邪をこじらせている僕は、本を読む気分になれない。

風邪をひくと、判断力、思考力が鈍り、高度な知的作業ができなくなってしまう。体の力が低下するから、本を読めなくなる。今、本を読まない人が多いという。彼らはみな、風邪をひいているのではないだろうかと思った。本物の風邪ではなく、時代の風邪。時代の風邪をひいてしまったら、本を開いて文字を追うと、すぐ疲れを感じて、ipodを聞くしかなくなるのではないか。携帯電話の液晶画面を見ることしかできなくなるのではないか。小難しい論理を追うのが、生活のためでなければ、賃金獲得のためでなければ、ひどく苦痛に思えてしまうのではないか。
posted by 春昼(旧名 野尻有希、再度昼) at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | エレクトリック・マルテの手記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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